野菜果物★小説

2018.11.01(木) 


 文學界・新潮・群像・文藝・すばる、 book 5社の新人賞受賞作品に、生まれて初めて、連続で軽く目を通した。そして読後、私は最近の野菜果物 apple を想起した。


 私は小さな頃から野菜や果物が好きだった。それぞれにそれぞれの味と匂い、舌触りがあって、おいしいと思っていた。ところが、最近のそれらはあまりおいしいと感じない。それぞれがもっていたはずの独自性とか個性とかがめっきり薄まってしまっいるからだ。


 トマト、あの太陽に照らされて熟したときの臭みこそが味わい深かった。ホウレン草にしてもキュウリにしても、ピーマン、スイカにしても、それぞれ独特な匂いと味があった。先日柿を買った。甘かった。なんておいしくないのだろうと思った。甘味料でも混ぜたような甘さであって、陽に当たって作られた甘さとはかけ離れ、私にはまったくおいしいと感じられないのだ。世の中の野菜果物は、世の中の一部の悪評に抗するかたちで、こうやってどんどん退化していく。


 この癖のなくなった野菜果物と最近の文学作品とが、なんだか似たり寄ったりに思えた。内容・構成についてはよく考えられているのであろうから口を挟むことはできない。問題は表現・叙述である。選考評を読むと、どの社のものもナントカのひとつ覚えのように「描写を書け」「描写で語れ」というのがある。それを参考にして、あるいはそれを参考にして書かれた作品を参考にして、次の人が書いてその中から受賞していくからだろうか。私が読んだ作品の多くがなんだか似たり寄ったり作品に思えて仕方がなかった。


 やたら詳細な人物描写、やたら詳細な表情描写、やたら詳細な情景描写、やたら詳細な行動描写、やたら詳細な会話(せりふ)描写、やたら詳細な周辺小物の描写……。これらを丁寧に丹念に書いていると評価するのか、表現過剰、しつこいと評価するのか、一概には言えないが、私はうっとうしさを感じる場合が多かった。まるでアニメかテレビドラマを一場一場説明されているようで、文字を通して想像し思考する読み手の活動を阻害されているかのように思えて仕方がない。


 そしてこれが最近の文学の傾向だ、と言われるのなら、それは下読み人や選考委員の感覚がもはや麻痺しているとしか思えない。


 確かに詳しいほうが作品の内容はわかりやすくなるだろう。だからといって唐突と思えるほどに詳細描写をはじめられたのでは、読みの速度にブレーキをかけられたような気になって、シラケてしまう。描写が丁寧なのは親切なことだが、過ぎれば過保護になってうっとうしくなる。その感じ方、受け止め方は読み手によっても異なるものだから、難しいといえば難しい。


 いったいいつからこんな「まどろっこしい小説」「引き締まらない小説」「中途半端な小説」が良し、とされるようになったのだろう。


 人物描写では『山月記』(中島敦)moon1 の李徴や友人の袁傪の描き方が非常に参考になるし、芥川龍之介の『杜子春』『羅生門』『馬の脚』なども、なるほど、と真似のできない巧みさにうならされてしまう。自然に読み手の頭の中に入ってきて、抵抗を感じさせない描写とはどのようなものなのか、選考委員には是非ともその辺を具体的にわかりやすく述べてほしいものだ。


 角度を変えて言えば、このことは内容・構成とも深く絡むことである。選考委員には、「描写を書け」「描写で語れ」の文言のみを選評の中に置き去りにしていくことはやめていただきたい。


 以上、管見の極み happy01scissors

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

第55回文藝賞選評を読んで

2018.10.30(火) 

 
 先日「文藝」2018冬号(河出書房新社)を初めて買った。中に第55回文藝賞発表関係記事が載っていたので、興味深く読んだ。応募総数1728編、1次予選通過68編,2次51編,3次32編、4次12編,最終候補作4編、最終審議の結果受賞作2編、という経過も述べられており、丁寧な報告だと感じた。


 受賞作は、日上秀之『はんぷくするもの』、山野辺太郎『いつか深い穴に落ちるまで』の2作に決定した。『はんぷく…」』は「一日に何人も客がこない被災地の仮設店舗を舞台に、奇妙な人間関係が描かれる」、「狭いエリアですべてが進む『ちまちました物語』」(選考委員 斎藤美奈子)である。『いつか…』は、日本からブラジルまで底のない穴を掘る「大風呂敷なホラ話」(同)である。


 さて、日本からブラジルへの穴の話は、ずいぶん前からよく取り上げられてきた話で発想に新鮮さは感じないが、今頃というのは、これまで取り立てて小説に書く人がいなかったからであろう。実を言うと、私も密かに「地球のトンネル」という題名の童話を書いている。もう半世紀も前のことだ。公園の砂場を掘って掘って、温泉にぶつかってお湯に入って作業の汚れを落としたり、マグマに出会って訳のわからない服を着てその場を通り抜けたりする話だった(当時、マグマ大使というのが流行っていた sign02 )。未発表、未公開だけのことで、世の中には似た発想の持ち主はたくさんいると思われる。1秒でも早く発表し「私が先よ!!」をやってしまったほうがよい、と言われるのはこういうことなのだと思った。あ、これは特許申請のことかな?


 それはともかく、この文藝賞の 選評を読んでいるうちに、またまた、私のこだわりの心に繋がる導火線に火が annoy 点けられてしまった。いつもと似たムカムカ、イライラが襲ってきたわけである。原因は、言うだけ言っても具体性が見えない選考委員の言葉、何をどう批判しているのか理解のしようがない選評に腹が立っているのだ(プンプン)dash


 磯崎憲一郎選考委員の選評「真顔で書き切る」の中の次の箇所。


日上秀之「はんぷくするもの」は、全編過剰な自意識が描かれているのだが、自意識を描くのであれば、それを対象化しないと小説としては立ち上がらない。(「文藝」2018冬 p.168)


 同じ作品を村田沙耶香選考委員は次のように述べる。


これはとても面白く読んだ。一つの世界を、丁寧に、丹念に書いている。作家としての「しつこさ」があることが優れていると思った。書きやすい展開や、突発的なアイデアに頼った方向に筆がすべるということがなく、しっかりと作品世界を踏みしめて書き上げていると感じた。
 特に人物が魅力的で、一人一人がとても生々しく、……(略)……描写がとても優れていると思った。
 作品としての完成度は、この作品が一番高いと感じた。(同P.175)


 また他のふたりの委員は次のように述べる。


足元が定まらない「仮」だらけの不安な日常を、ここまで明るく書けるのは、やはりひとつの才能でしょう。震災後文学という枠を超えた作品だと思いました。【斎藤美奈子選考委員】(同P.171)


悲惨と諧謔が同時に響く文章が独特の味わいを生み、他にないものになっており……(略)……。候補作のなかではこの作品がもっとも優れていると私は思った。【町田康選考委員】(同P.173)


  うーん。たった4人だが、読む限り、磯崎委員の読み方がやや個性的というか他と異なる読み方をする人であるような印象を受ける。にしても、「小説としては立ち上がらない」とはどういう意味か、具体的に説明をお願いしたい。そうでなければ、私のようなボンクラ読者は不満の思いを持ったまま夜も眠れなくなってしまう。


 もうひとつ、磯崎選考委員の以下の箇所。最終候補作品の1作である。


烏有真由樹「未踏の地」は冒頭の山の描写は悪くない、……(略)。しかしそれ以降、作者の考えを小説で説明しようとしてしまっているから、全く小説が立ち上がって来ない。過去の脆弱性、恣意性のような話も書きたいのだろうが、それをそのまま「過去を雑に扱ってるね」「そんな時間は実は存在しなかったのではないかという疑念が浮かんできた」などと書いてしまっては、小説にはならない。……(略)……この作者は、小説とは作者の意のままに操ることができる道具なのだと勘違いしているのではないか?  (同p.16)


 アンダーラインが問題と受け止めた部分だが、後半の③はまったく「?」である。小説が書き手の意のままに操ることのできるものでなかったら何なのだろう? 意のままに操れるから、SFだってファンタジーだって創作することができるのではないの? それとも、小説とは現実に見たまま、現れた事象のみを正確に写して書け、とでも言っているの? ボンクラ頭脳の私には氏の言いたいことが1ミリも伝わってこない。そんなことを言っていたら、創作物のオリジナリティーとかマジックリアリティーとか認められなくなっちゃうよ。実験的な創作への挑戦なんてできなくなっちゃっていいの? ま、実際に「未踏の地」という作品を読んでいないので、あまり勝手なことは言えないけれど。


 前後したが、前半の問題部分のほうだが、①はまた「小説が立ち上がって来ない」だ。②は「小説にはならない」だと。小説だと思って書いているものは小説でいいんじゃないの?  よくわからないなあ。多少近い評価を述べたのが村田沙耶香選考委員の選評かもしれない。


しかし一方で、せっかくのテーマが、ただ述べられたという状態のまま、あっけなく終わってしまっていると感じた。小説は、観念やテーマのただの置き場所になってはいけないのではないかと思う。観念的な文章を置くだけではなく、人物と人物、人物とテーマが摩擦して、小説ならではの化学変化が起きなければいけないのではないか。この小説は、主人公の思いが置いてあるだけで、「まるで展開のような、エピソードの追加」が繰り返され、実際には物語が展開しないまま収束していると感じた。せっかくの魅力的なテーマを、小説の中で発達させてほしいし、それが読みたかった。


 同じ作品を読んだ別の委員の言葉によってやっとわかったような気がするというのは、なんとも情けない。

 
 正直なところ、この手の選評を読むと嫌になる。結局、あんたの作文は「小説」になっていないよ、と言いたいのだろうが、選考委員が一人でなくてよかった、と思う。作品の良さに気づいてくれる委員がいなかったら、せっかくの労作が玉砕となる。この手の選評は、批評対象とされている文章よりもたちが悪い。その結果、ムカムカ、イライラが募ってしまう。こういうことがこのところ増えている。


 「文藝」はいわゆる純文学を求める賞でないことはわかった。たくさんの予選通過作品の題名や筆名を眺めるだけでもそれが感じられる。「すばる」はエンターテインメント小説を募集している。となると、純文学を求めているのは「文學界」「新潮」「群像」ということか。だいぶわかってきた気になる。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

第50回新潮新人賞の発表

2018.10.16(火)                              

 ここのところ、モヤモヤと晴れない何ものかが胸のあたりに淀んでいて気持ちが悪い。実際にこみあげてきそうで気分がすぐれない。原因はわかっている。わかっているが自分の力ではどうにもできない。

 その原因とは、小説でない小説とは何なのだ? という疑問である。

 先日、第50回新潮新人賞の発表があった。受賞作『いかれころ』(三国美千子)をさっそく読んだ。悪いけれど、まるで興味もわかないし、面白くもなかった。当然、感想を書く気にもならない。

 考えてみれば、最近面白いと思える作品に出会うことがあまりない。これは読み手である私自身の問題なのかもしれないとまで思うようになっている。書き手がほとんど年下の世代になっているので、言語感覚も人生感覚も面白さの感覚も、何もかも開きができてしまっているからかもしれない。

 周辺には同世代の読書好き人間がたくさんいる。みんなどんな思いをもちながら「今」の小説を読んでいるのだろうか。日頃聞く言葉は「最近の小説は面白くないねえ」「あれで賞が取れるんだから世の中変わったねえ」「今の作家は訴えるものが薄いというか、軽いんだよねえ。そういう時代なのかねえ」……。

 変わって周囲の若者世代に聞くと、「作家自身の考え方なんだから別にいいんじゃない」とか「選考委員も若いし世の中も軽いからその程度の内容になるんじゃないの」とか、みんながみんなそういうわけではないだろうが、昨今の小説と同じぐらい信念の伝わってこない言葉を吐く。

 それにしても選考評で委員たちが受賞作を褒めることの意味すら理解できない。委員の述べる意図が理解できなくなっては終わりだな。そんな捉え方に共感できない者は既に読む力が衰えている、もしくはなくなっていると考えたほうがよいのだろうか。自分のボンクラ化した脳ミソをしばし嘆いてみる。

 選考評の中に、最終選考に残ったある作品について「小説に近づきさえしていない(田中慎弥)」、また「エッセイ風の方法論では小説は難しい(中村文則)」などの文言があった。該当作品を読んでいないので断言はできないが、そんな小説があるのだろうかというのが私の思いである。

 小説になっていない小説とは、小説でない小説とは、なにをもって区分けするのだろう。よく言われることだが、著者が「これは小説です」と言えば、誰がなんと言おうとそれは小説である(のだろう)。そこまで言うのなら、小説とはこれこれこういう書き方をしている文章だと、くどくど説明してもらわなければならない。あの向田邦子さんはエッセイの大家だが、小説風のエッセイを書く方だと言われていた。これだってご本人が小説ですと言われれば小説で通っていたかもしれない。ご本人が「随筆です」と言っておられたからそうなったので、「小説です」と言って応募してきた作品はやはり小説なのではないかと思うのだが、いかがなものか。私小説、心境小説なんて今は流行らないかもしれないが、書き方によってはエッセイ風になってもよいのではないか。あくまで「~風」。いろんな小説があっていいと私は思うのだが。新潮新人賞では×なのだ。

 話は転ぶが、選考委員の一人田中慎弥氏の選評を私は毎回楽しみにしている。お人柄なのかどうなのか、お会いしたこともないのでよくわからないが、手厳しいながらも脱力してしまう緩さ、滑稽さ(失礼!)が感じられ、面白いsign03 受賞作よりも田中氏の短文のほうが百倍面白い。その田中氏の今回の選評の中のお言葉。

「絶対これに新人賞を取らせたい、と思わせる候補作はなかった。作品の水準の問題ではなく、私の方に問題があるのか。」(「新潮」2018年11月号p.76)

「他誌にも共通するだろうが、該当作なしは避けたい、という編集部及び選考委員の姿勢に、私は全く同意しない。受賞作なしが当たり前、くらいで丁度いい。それで新人賞が機能不全を起すなら起せ。絶対に賞はやらないぞ、という意地悪な選考委員を粉砕する強力な作品だけを待っている。」(同p.77)


 私は氏の選考評のファンである。小説はまだ読んでいない。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

群像新人文学賞と<裂>と好尚と

2018.10.08(月)

            
 例の盗用剽窃事件が契機となって、群像新人文学賞について少々調べてみたのがついこの前のこと。そのときに応募要項に付加して示されていたのが次の一文だった。


 「花村萬月の『裂』は小説ですが、群像新人文学賞の選考過程、新人賞の舞台裏が描かれています。群像新人文学賞に応募する方は目を通しておくといいでしょう。」


 はあ、なるほど。さっそくネットで一番安い中古図書を注文した。講談社刊、なんだ、群像の出版社ではないか、ふ~ん、手前味噌的PR!? ではないか。


 ともあれ、この一冊の中に例の新人賞のヒントが隠されているというのなら読んでみる価値はありそうだ。本が届くまでのあいだ、多少のワクワク感をもって、どのような作品なのか楽しみにしていた。ちょっと引っかかっていたのが「花村萬月の『裂』は小説ですが」という一節であった。小説ということであれば、何らかの虚構世界があって、その中に新人賞の舞台裏がはめ込まれながら展開しているということか? いったいどのような世界をもってきて描いていくのだろう? そんなことのほうが気になった。自分だったらどうするのかなあ、と考えても答えの出ないどうでもいいようなことを考えていた。


 思ったより早く届いたその本は、思ったより大きく、しかも真っ赤なハードカバーの贅沢そうな代物だった。本文は297頁まである。金かけてるなあ、と羨みながらも2011年ごろの出版事情をあれこれと勝手に想像した。


 読みはじめて、すぐに、あーこれは私の嫌いな部類の小説だあ、とげんなりした。小田和正の歌ではないが、言~葉に~できな~い。言葉にできない内容なんて、もちろん、家族にも読ませられない。え、こんな趣味あったの? えーエロい~、グロい~、キモい~、と言われるのがオチ。しばらくその場面が続いたかと思うと、それはある作家志望の男性の小説だった、という設定だと判明する。(こういうの、この前読んだなあ。女の人の小説だった。名前覚えていない)。同時に、かなりの確率で各社新人賞の最終選考に残る応募歴をもつその男性に、まっとうな小説を書かせようとしている講談社の女性編集者(群像担当)が登場する。この女性の視点でその後の話は展開していく。


 この女性編集者の日常のパートナーがまた、かなりセンスの劣る作家志望として描きだされる。簡単に言えば、この男性がいわゆる世の中のダメダメ作家志望者の代表として描かれるわけで、こういうのは良くないよ、編集者や審査員に悪印象を与えるよ、という書き手としての非常識を炙り出すための役割を担わされている。これはこれで、非常に良い勉強になる。そこに花村萬月を取り込んで、花村先生ならこう言うよ、花村先生はこんなことまでしているるよ、などと女性編集者がパートナーに説明を加える場面も展開されるので、あ~、あ~、すごい展開の仕方だなあ、と眉を顰めながらも感心してしまう。


 女性編集者は結局こちらの男性とは距離を置き、最初のエログロ男との関わりを密にしていく。ストーリーを追っていくと、とてつもない文字量になるので、以下割愛するが、なんだかんだ言ってもエログロ男にいい小説を書いてもらうために、女性編集者は自分の知る限りの情報と自ら得た知恵を送り続ける。最後にはこの男性が真剣にいい文章を書き上げ、群像でなく文學界新人賞を受賞し、芥川賞まで手に入れてしまう。こうしたらこうなりましたと、春秋の筆法式に因果だけを書き並べた小説ではなく、純文学にせよエンタテインメントにせよ、小説を書く上でのホンモノの現場を知っている作家が具体的に哲学的に、意味不明な言葉を並べ立てて、教えてくれる、そんな小説だと受け止めた。

 しかしだ、繰り返すようだが、『裂』は小説の書き方教室とエログロ小説が合体したような作品である。p199後半部で、女性編集者の言葉として登場人物の一人である花村萬月先生のことを「……花村先生は職業として小説家を選択したので、売れなければならないという強迫観念に囚われていたそうです。ところが五十枚にいちど、セックスか暴力を書いてサービスして……」と紹介させる。まさにそのまま本小説に当てはまり、そこが私の眉を顰めさせた、最も毛嫌いさせる点である。そんなものを読んで「傑作だ」とか「なんて文学的なのだ」と、人は言うのだろうか。いったい誰に読ませたいのか、エログロとはなんなんだ? これがどのようなサービスになるのか? まったくもってわからない。そもそもどれぐらいの本を売っている人なのか。そこも調べてみなければならない。もしもかなりの数を売り上げているとしたら、日本人はそういう趣向の小説が好きなのか? それともその部分は飛ばしてでも小説家として認めてもらえるヒントを得たいと思って一部作家志望の人たちが買っていったということなのか? 私にはまるでわからない。そういえば、最近の若者はこういった趣向を敬遠する傾向があると何かで読んだように思うが、どうだったっけ?   私はどちらかといえば若者ではないが、こういうのは恥ずかしくて読めない。みんなどんな顔して、どんなことを考えながら読んでいるのか、一度聞いてみたいものだ。


 とまあ、こう憎まれ口はたたいたが、花村萬月氏の文章は描写が非常に巧みであるということはわかった。一つ一つが具体的で、臨場感をもって読める。また読後に振り返ったとき、こういう構成だったな、と図に書き示すこともできる。読み疲れるぐらい難しいことを書いてはいるが構成はわかりやすいので、ストンと落ちるものがある。さらに、嫌なものを書いてはいるが嫌味がない。女性に対してひどいことをしているようで、実は優しくフォローしている。花村萬月氏は、やはりすごい人なのだろうと改めて思っている。


 ここから後は、今、脳ミソに引っかかっていることを、私なりの言葉で。

①読みやすい原稿を作ること。字間はゼロ設定。これが崩れていると、読む気も失せる旨。見た目に美しく仕上げるセンスと文章力とが関係あるのかな。

②ネットで調べてコピーして貼り付けただけではダメ。誤字もそのままになることがある。事典辞書、原典に当たること。本に代価を支払うのは、それが手間をかけ間違いをなくす努力を何重にもしたものだからである。

③ある作家の作品を読んで傾向と対策を練ると、その作家の作品に似る。とてもオリジナルとは言えない。純文学系の新人賞応募原稿は村上春樹だらけ。村上春樹の亜流作品を得意げにオリジナルのつもりで送りつけてくる応募者ばかり。

④250枚以内というと、250枚いっぱいいっぱいに書いてくる人が多いが、削れるところを削り、刈り込んでいけば、ものによっては半分、おおむね3分の2程度にシェイプアップさせることができる。ひたすら不要な文言を積み重ねて書くのはどうか。


 ほかにもたくさん参考になることがある。ここはやはり募集要項に付加してある文言どおり「群像新人文学賞に応募する方は目を通しておくといいでしょう」である。


 以上、あくまで個人の感想です。


 群像新人文学賞の締切は、今月末ですね。全国の作家志望の皆様、体調を崩さず、頑張って書き上げてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2018スプリンターズステークス

2018.10.2(火)

 今年も9月30日(日)に中山競馬場で恒例のスプリンターズステークスが行われました。雨天で馬場状態も良くない中での開催でした。お馬さんたちが滑って転ぶことのないように、祈っていました。

 レッドファルクス君が大好きで、何日も前からドキドキheart04 ワクワクheart01 しながらこの日を待っていました。前回のスプリンターズステークスでの4コーナーからの爆走は忘れられません。とにかく、速い、カッコイイのってなんのって、すばらしい!!!の一言でした。もうひとり、スノードラゴンさんも大ファンで、ふたりとも芦毛。どうもゴールドシップさん以来、芦毛のお馬さんにベタ惚れしているようです。

 ふたりは何年も連続で参加し、1着を収めたこともあるベテラン。1200mという短距離なので、スタートしてからが速い、速い。加速、加速で、ドラゴンさんは初めのうちは、結構前の方で走っていましたが、ファルクス君は大外だったためか、かなり厳しい位置を走っていました。香港からの参戦馬が4コーナー付近で中止していました。足を傷めて競走不能になった模様です。それで15頭での争いとなりました。結果はファルクス君10着、ドラゴンさん15着でした。

 残念な結果になりましたが、ドラゴンさんはなんといっても、10歳。競走馬としてはもう先輩も先輩。むしろあの短距離をよく走っていると思います。ファルクス君7歳も手強い後輩が続々と登場する中での雄姿、とても素敵でした。3連覇達成とはならなかったけれど、私は大満足しました。

 今年のこのレースで一番驚いたことは、女子の頑張りでした。1着3着は牡馬(男子)でしたが、7着までに参加牝馬(女子)全員が入っていました。2着となったラブカンプーちゃんは唯一の3歳馬、若いです。速いのなんのって。お祖父さん(父父)があのサクラバクシンオーというのだから、頷けます。キタサンブラックの祖父ちゃん(母父)もサクラバクシンオーだったから、速いのは受け継がれていくのだなあ、と妙に納得しました。

 こういう姿を見るにつけ、ゴールドシップさんは、やはり短距離は無理で長距離向きだなあ、と思ってしまいます。お馬さんにもそれぞれ特性があって、それを見極めながら育て調教する方たちは大変でしょうが、驚くような眼力を持っておられるのだと改めて敬服した次第です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

牛馬

2018.9.29(土)

                                                                     

 ひとつ前の記事で『象牛』を扱ったからではないが、「牛馬」について。読み方は「ぎゅうば」でも「うしうま」でも可。

 今朝、今近づいている台風の名前がチャーミーだというのをTVで初めて知って、家内であれこれと談義をした。日本では星座の名前を台風につけると か、真偽は定かではないがそんな話もあって「山羊」が話題に上り、さらにそこから私の昔話に発展してしまった。

 私が小学校低学年の頃、集落のメインストリートを背筋を伸ばした牛や馬が堂々と行き交っていた。ま、メインストリートとはいっても、集落に一本しかない、車一台がやっと通れるぐらいの砂利道ではあったけれど。

 馬は奥山で切った竹を運び出す馬車を引いた。牛は農耕のためのもので、私の家でも父が親戚から牛を借りてきては田んぼを耕していた。トンビというV字型の大きな金属器具を牛に引かせて田を鋤くのである。その牛には名前があって「カベ」と呼ばれていた。私が近づくと、カベはいつも私の顔を長い舌でベローンsweat01 と舐めていた。(だから今でも私はタンは食べない。あまりにも生々しい記憶があるからである)。しかも、私はカベがもらった優秀な牛を証明する(?)メダルをもらってしまっていた。オリンピックの銅メダルのような、大きな円形拡大鏡ぐらいのメダルだった。ま、牛の首にかけるのだから大きくて当然か。確かにカベの馬力は素晴らしいものだった。あー、馬力ではなくて牛力か?

 で、当時のメインストリートには牛馬の糞があちこちに見られた。届けるわけにもいかない落とし物である。その頃の私たち子どもの間には「馬の糞を踏めば足が速くなる。牛の糞を踏んだら遅くなる」という噂が流れていた。みんなの前で踏めば踏んだで、あいつの足には糞が付いているから臭いぞ、などと言われて避けられるのはわかっているから、踏まない。人目がないな、と思ったときに素早く踏む。それもよく乾いているのを選んで踏まないと、大変なことになる。うまく踏めたら、途端に足が軽くなって速くなっていくような気になる。

 そのうち、「踏んだ?」「何を?」「糞だ」「踏んだ」などと、文字変換のような短い言葉が子どもたちの間を飛び交う。「踏んだ」「踏んだ」と喜んでいる子どもの中には、柔らかいのを踏んだのや牛のものを踏んだのもあった。「靴の横までベチョベチョに付いた」「あー、ワシ、足遅くなったかもしれん」という声は毎年のことで、なんで牛馬の糞ぐらい見分けられないのか、と不思議だったことを覚えている。これを教えてくれたのは、たぶん親の世代の人だったように思う。

 今になって考えれば、なんとのどかな時代だったのだろうと懐かしい。私の場合、牛も馬も、もう簡単に見るということはない。馬は競馬中継で、牛はTVニュースでぐらいかな。山羊だって、子どもの頃は犬のようにつないで飼っている家も周囲にあった。現在の周囲には雷が鳴ったとき、怖いよーといってけたたましい鳴き声を上げる犬たちがいるぐらいで、ほかはいないなあ。あ、今年の春、街なかに熊が現れてたっけ。中継やっていた。そういうのはちょっと……遠慮願いたい。

 土曜の朝のひととき、台風からスタートした糞のお話でした。

 チャンチャン notesnotes

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

『象牛』(石井遊佳)を読んで

2018.9.25(火)                


芥川賞作家、石井遊佳氏の受賞第一作を読んだ。「ぞううし」という。

題名から私の頭にはある絵が浮かんだ。曼荼羅のような、エジプトの古代絵画(パピルス画)のような、何の絵だったかははっきりしないが、ああいった類いの絵の中に登場しそうな動物だかなんだか、そんなモノである。そんなモノが登場して、どんなドラマが繰り広げられるのだろうか。あの『百年泥』では卓越した構成と表現に心底驚嘆させられたので、新作はどのような世界だろうかと、大きな期待と学びの心をもって読み始めた。


すると、いきなりインド文化(思想、民俗等々)に関する研究論文のオンパレード。あ、とうとう本業が顔をのぞかせたのかな、とつい思ってしまった。だが、読んでみると論文の中身はいささかホラっぽい(ホラーではない)。そこで、論文著者の名前と、論文掲載誌、出版社、ついでに「象牛」について、検索をかけてみた。すると、そんな論文も研究書も出版社も架空のものだということがわかった。「象牛」に至っては、象のような画像と、そんな動物にはまるで関係のないものと、石井遊佳氏のこの小説の紹介文のようなものしか出てこない。


『百年泥』で散々マジックリアリズムに騙されかけていたので、今度はそう来たか、と感心するやらおかしいやらで、数ページは読み進んだ。得体の知れない象牛なるものが人のボールペンを自分の鼻の奥まで差し込む描写はちょっと愉快だった。ちなみにマジックリアリズムとは、マジックとリアリズムの結集体のことで、「日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法」(ウィキペディア)と説明されている。日本の作家では安部公房や村上春樹の作品が例挙されている。


だが、今作の大部分を占める男女の関わり、性的描写、汚物の描写、動物の命を無下に扱う表現等々に、途中から読み進めるのをやめようか、それとも一応読み終えようか、と迷いに迷った。で、我慢して一応読んだのだが、まったくもって面白くなかった。


一作目に比べると、氏のよくない部分が大きく出てきた作品だと思った。「わかりにくさ」である。氏の作品は糾える縄のような構成を取っている。赤と白の紐をより合わせ縄をなったとき、視点を定めてその縄を見れば、赤と白が交互に現れる。その赤白は、2つの紐が途切れることなく続いているのだが、一方向から見ればどちらかの色しか見えない。氏の場合はそんな紐が3色以上あるのかもしれない。まあこれは場面が変われば、あ、ここはあの紐だな、ここはだいぶ前の紐の流れだな、というのがわかるので良しとして、困るのはシュールな内容を自然に納得させるための表現がストンと落ちてくれないことだ。


氏の作品の特徴と言えばそうかもしれないが、読めない漢字読みにくい漢字をあえて(わざと?)多く使う点。漢字は表意文字である。なのに意味もくみ取れそうにない漢字がたくさんあれば、それだけ内容も伝わってこない。読者みんながみんな辞書を片手に読んでくれると思ってはいけない。素直な読者は即座に読むのを放棄してしまうかもしれない。たとえ読み通しても結局意味わからん! で終わってしまうかもしれない。読者に委ねすぎてはまずい。こういうところから読書離れに加速がかかる。次に、私はあえて「良くない」と言うが、比喩の濫用。修辞法は適度に使用することで文章も豊かになる。だが、使いすぎると、くどい。回りくどい。そういえば作品の中に、「くどい」という表現がたくさん並ぶ箇所があったなあ。あと、持って回った言い方。一か所にこれでもかと言うほど凝り過ぎた表現をされてしまうと、もう疲れを通り越して飽きてしまう。もう一つ、主な舞台がインドだから仕方がないが、私にとっては聞き慣れないカタカナ語が多かったのも嫌気を誘う要因となった。同じカタカナでも馬の名前ならわかるんだけどなあ。


今作は、評価が分かれるだろう。確かに受賞作には新鮮さが感じられた。ある種の清潔感もあった。だが、『象牛』にはわかりにくさと面倒臭さと気持ち悪さしか感じなかった。嫌いな作家ではないだけに、期待も大きかった。そのギャップが厳しかったのかなあ。具体的表現をあげて書くとかなりの量になるため、抽象的表現で終わるようになることを失礼で申し訳ないと思う。


以上、あくまで個人の感想です。労作をけなしたようですみません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

しお(塩)らしいお話

2018.9.20(木)

      
「塩分控えめに」「塩分摂り過ぎてはいけませんよ」
こんな言葉をよく聞く。体を守るために必要なことを言っている言葉である。だが、問題はそこから始まった。


現在受けている治療を担当する医師、看護師、栄養士から、口酸っぱく言われれば、毎食の塩分に必要以上配慮するようになってしまう。これは当然。


私は考えた。ただでさえ、日頃から塩辛いものは好まないので、塩を使うことはあまりない。そこから行う「マイナス塩」とはどういった状態をイメージすればようのだろうか、と。ちなみに、私の生家はどちらかと言えば薄口派で、出汁味に重きを置いた味付けをする。それで育っているので、そもそも塩漬け生活はしていない。


数年前、家人が東京に入院したとき、その病院の食堂で<そうめん>を食べたことがあった。自分の地元と違って、本当につゆと麺だけの寂しいお膳だった。とりあえず、そうめんをつゆに浸け、口に運んだ。ゲエエエエーッ!! 


weep  涙が出るほど辛かったのだ。あまりの辛さに身震いしながら無理して飲み込んだが、ちょっと考えて、先に来ていたコップの水をつゆの中にジュブジュブ注いで、かき混ぜて、もう一度<そうめん>を浸して、口に入れてみた。辛さは多少収まったが、おいしくないのなんのって。結構な値段だったので、その場はかなり我慢して体に突っ込んで帰った。それは食べたというような状態ではなかったし、だいいち体が満足していなかった。


次にその食堂に行ったときも、ほかに食べたいものがなかったので、性懲りもなく<そうめん> を頼んでしまった。待つこと30分。長すぎる。そして……運んでこられたお店の方から、いきなり「おいしくなかったですかねえ?」と言われてしまった。coldsweats01


「え?」と言うと、「この前、見ていました。お水多めに持ってきましたので、お味を調整してみてください……」というようなことを言われてしまったのだった。あ、見られていたのだ、とちょっと気まずい思いをしたが、お店の方は、「どちらからお越しですか?」と訊く。「西の方です」と答えると、「あちらは出汁味がきいたつゆでしょうね」と言う。「そうですね、出汁もですが、味そのものが薄味になると思います」「それでは、この辺のでは辛かったでしょうね」「はあ、すみません」「いいえ、気になさらないでください」などというやりとりの後、結局水でさんざん薄めて、シュルシュルと食べた。 happy01paper


私の育った地方では、そうめんの上に味付きの椎茸、きゅうり、トマト、錦糸卵、ハムなどを薄切りにして載せて食べる。出汁を利用したつゆで食べると非常においしい。文化の違いと言えばそれまでだが、ここまで味が違うというのは、このときが人生初の体験だったかもしれない。


あれから、いくら東京の方で「このお店はとてもおいしいです restaurant」なんて紹介されたって、絶対私の口には合わない、東京の味覚って、どうよ!! とひねくれた見方をするようになってしまった。


さて、話題を戻そう。塩分を控えめにと病院から言われたものの、現状からどう控えればよいのかわからないまま時を過ごし、血液検査で結果を見た。 eye ゲエエエエー、ゲ、ゲ、ゲ……、正常範囲を下回っているではないか。しかも医師に言われた言葉、「塩分は1日3~6グラムは摂ってください」。じゃあ、私の場合、塩分が不足しているってことじゃん。


フツウに食べてもやや少ない状態だったのに、病院側は一律に「塩分は控えめに」と言い渡していたってこと? 困るなあ、そういういい加減な指導という名の命令は。世の中には私のような味覚、食生活の者もいれば、あの辛い<そうめん>の地域のような味覚、食生活の者もいる。東北は塩分多めの地域だというが東京の<そうめん>よりももっと辛いのかもしれない。これらに対して「塩分は控えめに」と一律に言うのって、なんかおかしい。病院側って、その辺の矛盾に気がついたことってないのかなあ。すっごく疑問です。

以上、少し過去のお話でした。チャン、チャン notesnotesnotes

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

今日

2018.9.19(水)

今日は私の誕生日でした。
古い母子手帳によると、夕方6時頃に生まれたようです。
取り上げたのは実の祖母、助産師をしていました。

特に変わったことのない一日でした。
特別何かおいしいものを食べたとか、プレゼントをもらったとか、何もありませんでした。

一人だけ、「ハッピーバースデー……」と言ってくれた人がいました。いつも通っている病院の看護師さんです。おとといの治療中、 明後日は……と話したのを覚えてくださっていたのです。まあ、これだけでも誕生日なのだなあ、とその気になることができたので少しだけ嬉しかったです。

でも、一つだけムカッとしたのは、隣で治療を受けていたおじさんが「今日は9月18日」と何度も繰り返していたことでした。看護師さんが「19日でしょ」と何度訂正しても、「いや、18日じゃ!」と主張していました。なんか文句あるんですかい!! 思わず怒鳴りそうになりましたけど、無視しました。

あ~、もう●●歳か。なんだかなあ。複雑な気持ちです。 

      present  birthday  virgoshine  wine  apple 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

明後日

2018.9.17(月)

      
  秒針が60秒で0のところに移動するように、長針が60分で0のところに移動するように、私の歳も60年で還暦を迎えた。でも、私の場合は0のところに移動したわけではない。新しい周回を始めるスタート地点に立ったのだ。同じように、秒針も長針も、1周回っては新しい時を刻むスタート地点に立っているのだ。時は、いつだって前へ前へ進んでいる。私の命も前へ前へ進んでいる。時に終わりはないが、命にはいずれ終わりが来る。


 ……なんてことを柄にもなく考えてみた。明後日は私の60ン回目の誕生日。ま、あまり嬉しいことでもないんだけどね。アムロちゃんとか、安倍ちゃん、麻生ちゃんと同じ乙女座で、安倍ちゃんと同じ金星人+、似た運勢を持っているのかどうか、知りたいなあ。ちょっと興味ある。


 プレゼントなんて、もうほしいとも思わないし、ケーキもご馳走も食べたいなんて思わない。そうだ! そういえば昨日またノートパソコンを買ってしまった。2ヶ月前に買ったばかりなのに、いろいろと気に入らない点が目立つものだから、これでは死んでも死にきれない、と思って買ってしまった。これが唯一の自分へのプレゼントかな。日頃、たいして贅沢はしていないから、これぐらい許してもらえるよね。 
 

cake wine noodle bottle fastfood bar riceball beer cherrycherry cake banana cafe

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 年に一度の母