蹌踉ける

2018.7.13(金)


 bus 病院へ行くためにバスに乗りました。いつになく人が多くて座席は空いていません。手摺につかまって立っていましたが、発車と同時に蹌踉けました。隣にいたお兄さんにぶつかり、お詫びを言いました。「あ、大丈夫ですよ」と言ってもらったそばから,もう一度蹌踉けて左足を少し踏んでしまいました。「足、大丈夫でしたか? すみませんねえ」と言うと「あ、大丈夫です」と返してもらえたので、とりあえずほっとしました。


 そのすぐあと、近くの席のおばさまから「どうぞ、座ってください。替わりましょう」とお声がかかりました。3度お断りをしたのだけど、「どうぞどうぞ」とあまりにも勧められるものだから、「ありがとうございます」と言って座っちゃいました。


 明らかに私より年上の方から譲られた席に座る私って・・・・・・情けない。というか、バスの揺れに乗っかっていけなくなったことにかなりのショックを感じました。 despairsweat02



 ところで、「蹌踉ける」という字が読める人はどれぐらいいるのでしょうか。私はつい最近までこんな字があることすら知りませんでした。あの芥川賞作家石井遊佳さんが「百年泥」の中で使っておられた漢字で、いったいなんと読むんだ? と思い調べたのが事の発端で、「よろける」とわかったときは深く(へえーdash )と深呼吸したものです。いつだったか「足搔く」も読めなくて調べたら「あがく」だとわかり(へえーdash)と思ったことを思い出しました。



 「乖離」「忖度」など、このところ国民的注目を浴びた漢字はその流れに乗って読めるようにもなりますが、そうでなければなかなか・・・・・・が普通だと思いませんか。そういえば、「忖度なんて今の若い人は知りませんよねえ」「見たこともない漢字ですよねえ」と言っていたメディアがあったけど、いい加減だね! 高校現代語の教科書に載せているところがあるよ。そんなの調べもしないで、自分たちの都合のいいように現実までも曲げて報道する。よくないことですねえ。pigpig



 それにしても、読めない漢字があるのは不思議なことでも驚くことでもありませんよね。なのに、「未曾有」「云々」「清々しい」が読めなかったからといってやり玉に挙げたり、冷やかしたり、意地悪を言ったりするのはどうなんだろうなあ、とちょっと悲しくなったりしますけど。読めない人がいたらそっと教えてあげればいいだけのこと。いちいち大騒ぎしてどうしたっていうの? と言いたい。最近のマスメディアって、人を貶めたり辱めたりすること多いなあ。そういうことを言う人たちが揃って漢検1級をもっているわけでもないでしょうにね。pigpigpig



 あ、そういえば昭和から平成に変わるころ通っていた勤務先で、上司が訓辞の中で「しょうかそんじゅく(松下村塾)」のことを「まつしたむらじゅく」って言ってましたねえ。あの時はみんなで「えっ」「えっ」と、目を見交わしながら狼狽えてしまいました。で、誰一人として上司に、「吉田松陰の松下村塾はしょうかそんじゅくと読みます」と直言した人はいませんでした。


 あー、世も末、ちゃん、ちゃん note  happy01scissors

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アジ サイゲル様

2018.7,7(土)shineshineshine


 先日はコメントをありがとうございました。

 すぐに返信したのですが、何度実行しても届きません。何がいけないのかもよくわかりません。そこで、お恥ずかしいことですが、この方法をとらせていただきました。気がついていただければ幸いです。

 「追憶の花びら」の作者が誰なのかということですが、実はまだわかりません。私も半世紀の間、多くの人に訊ねてみました。「竹久夢二」ではないか、という声もありました。しかし、定かではありません。田舎町のヤマモトという小さな雑貨屋で中学生が買った便箋の表紙に印刷されていた詩です。夢二の詩はそんな場所に印刷する許可が降りるものでしょうか。確かにインターネットで検索すると、「竹久夢二追憶の花びら」と名の付いた項目が現れます。だからといってそこにこの詩が載せられているわけでもありません。夢二の詩であれば、大正ロマンを彷彿とさせる恋愛に絡む内容のようにも想えます。

 また全くの無名の方の作品であれば、内容から考えますと、過ぎ去った日々は二度と帰ってこないけれど昔あったあれこれや若い日々に夢に描いたことは今でも脳裏によみがえってくる。それは追憶という名の花びらのようなもので、はかない存在ではあるけれど、そのひとひらひとひらからは、懐かしい場面の情景が映し出されて、そこには君(あなた)も一緒に生き生きと浮かび上がってくる。こうして私は、永遠に君(あなた)という人を思い描いては生きていくのだなあ……というような意味にも捉えられます。だから、懐かしい人(君、あなた)にこの便箋を使ってお手紙を書きましょう、という誘いの言葉なのかもしれない、とも想ってしまうのです。実に勝手な解釈ですが、作者不明のまま、50年をかけて想像した内容です。

 お答えにはならず、失礼なことばかり並べてしまいました。ただ、この詩の味わい深さを共有できる方がおられることを知っただけでも、どこか幸せな気持ちになれたように思います。ありがとうございました。(シルビイ)

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人の褌で相撲を取った !? 「美しい顔」

2018.7,5(木)



 今朝、テレビを見ていてビックリした。

  あの北条裕子氏の小説「美しい顔」に盗作・剽窃疑惑が浮上しているとのこと。ああ、サッカーに熱を上げている最中の出来事だあ、まったく気づかなかったーーー。

  
 氏は群像新人文学賞(講談社)を受賞し、副賞50万円も受け取り、今は芥川賞候補作家として誌上に顔を何種類か露出している(目がくりくり大きく、可愛らしい顔つきのお嬢さん)。

 正直なところ、「やっぱり」という思いだった。私は前に書いた記事の中で「既読感がある」「ノンフィクション分野の読書感想文みたい」と述べているが、この腐れ勘はほぼ当たっていた。

 「小説家わかつきひかるのブログ」を読ませていただくと、文章表現の類似が、なんと五冊十数カ所あるという。それでも講談社は著作権法にかかわる盗用や剽窃などには一切あたりません、と述べているという。人の褌で相撲を取ったことについての法律に関することはわからないが、こういう評判が世の中を駆け巡ったことじたいがこの作品の終焉を告げたと同じことだと思った。私のような純文学が何か、小説が何かを知らない人間に、「どこかで読んだことのある文章だあ」と思わせたところで既につまずいていた作品なのかもしれない。

 あーあ、結局、ノンフィクション分野の読書感想文じゃんsign03
 
 もう一度前のブログ記事と同じことを言ってしまうが、北条氏の作品を褒めちぎった「群像」の選考委員、読書感想文とか読んだことないんだろうね。中高生の文章のほうが勢いがあってよっぽど生きていることを知らないね。小説しか読まないから、こんなことになる。北条氏の盗作・剽窃の汚名は生涯消せないよ、気の毒だけど。そしてそのことよりも、それを褒めちぎって選考してしまうような選考委員は、即刻総入れ替えしたほうがいいと思うけど、どうでしょう?

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文芸雑誌の運命

2018.6.28(木) 



 以前は「新潮」「文學界」「群像」などの文芸雑誌の一冊一冊を、それはそれは大切に扱い、そのまま人に譲ることができるぐらいきれいに丁寧にしまっていた(読んでいなかった!)。しかし2年前、余命宣告を受けて身辺整理をしたとき、ふと思った。

ーーこんなにきれいに丁寧に保存していても、他人から見れば単なる雑誌、道楽の具、無用の長物、にすぎないのだ、と。

 もう買わない、としばらくは本当に買わず、以前買ったまま読んでいなかったものをぼちぼちと読むことにしていた。それでも、たまには新しいものがほしくなる。で、結局買ってしまう。そこで考えた。

ーー積ん読はもったいない。お金をかけている以上はやっぱり読まないとな・・・・・・。

 本が読める時間はといえば、たびたび通う病院での長時間治療のあいだぐらいだ。この治療は寝た姿勢で行い、自由に動かせるのは片手だけであるため、分厚い文芸雑誌をそのまま持ち込むのはちょっと苦痛となる(片手だけなので疲れる)。

 そんなある日、これまた読んでいない文庫本を一冊棚の奥から見つけて、中身を見ると、「ああ、これは読みたくてたまらなかったあの本だ」とわかった。後藤明生著『小説ーいかに読み、いかに書くか』昭和58年5月12日第2刷発行(講談社現代新書)とある。そこでしばらく床に座って読んでいたのだが、あまりの経年による劣化が進んでいたため、めくるたびにパリパリと音を立てて本が割れていった(本当に割れている感じ!!)。バラバラになった本を見て、時間が経つと糊の部分が乾ききって無残にも分解されてしまうのだなあ、しかも読んでもいないのに余白の部分はお茶でもこぼしたかのように茶色く染まって年をとってしまっているなあ、と寂しくなった。それでも読んでみる値打ちはある本だと思ったので、章ごとに束ねてホッチキスで綴じてみた。

ーーははーあ、そうか。この一章ずつを治療のたびに持って行って読めば、時間的にも手への負担の面でも読みやすいかもしれない。

 この発見がもととなって、文芸雑誌も読みたい作品の部分を力を込めてちぎり取ってホッチキスで綴じ、めくりやすいように折り癖を付けて持参した結果、楽々読書らしきことができるようになった。

そして、
 おもしろいのは、ちぎり取られた本体の側である。つまり、ちぎり取られなかった作品群の残った文芸雑誌もどきが身辺に転がっていることになる。自分だけのために活用した後のそれは、<私>という読者に読んでもらえなかった労苦の結晶が置き去りにされた惨めな格好の一物体にすぎなくなっている。それでも私が対価を支払って自分のものにしたのだから、文句の付けようはあるまい。

蛇足、
 ごく最近の「文學界」2018年7月号。ちぎり取ったのは「三つの短い話」(村上春樹)、「ーある奇妙な小説ー老惨」(石原慎太郎)、「蝴蝶、カリフォルニアに舞う」(多和田葉子)の3作。「群像」6月号はおもしろそうなのがなかったなあ。若い作家の作品は深みと落ち着きがなくて、あまり読む気がしないなあ。

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第61回群像新人文学賞「美しい顔」(北条裕子) 所感

2018.5.30(水)

 
 一読して既読感が残った。

 久しぶりにこういう書きぶりの文章を読んだ気がした。
 久しぶりというのは、かつて同種の雰囲気をもつ文章をたくさん読んだ気がするからだ。何だったっけ? 考えること・・・・・・数分。思い出した。感想文だ。


 小中学生に作文指導、読書感想文指導をしていた現役の頃、賞に残る文章の中に、必ずこのように自らの心内語を感情の起伏を持たせながら書き連ねる作品があった。全国コンクールに出品するための県審査の場には、こういった類の文章はたくさんあった。それと似ていたのだ。通底するものが感じられたということである。

 選考委員は、北条氏の作品を絶賛し褒めちぎっている。このような文章にあまり接したことがないのだろう。ちょっと笑ってしまった。仮に、「美しい顔」がそこまで素晴らしいと言われる文体の作品であるのなら、小中学生感覚で想うがままに書き殴ればよいのだと勘違いする人々が出現しそうである。

 実際、日本一になった感想文、日本一を競った作文を見ると、たいていこういった、畳みかけるように繰り返す情の訴えや自分の話し言葉で心の有りようを描く場面がつらつら出てくる。ある対象とする現実を見て、詳細を認識して、共感的理解をして、自らの心の中を通してメタ言語として紡いでいく、これは形を変えたノンフィクション分野の読書感想文か主張作文に違いない、と私は思った。

 ただ、感想文にしては長くしつこい繰り返しに辟易する。そして斎藤さんの奥さんの長台詞が登場する辺りからは説明的になり無理やり収束へ向かわせる感が否めない。さらに最終の、主人公と弟の海岸での場面は、そうだよね、そうしないとこの話を終わらせられないよね、といったものになっていて、いささか寂しい。まあ、ここがあるから感想文や作文でなくて小説なのだ、ということがわかるわけだが。

 それにしても、北条さんの書き上げる根気強さと視点と筆力は素晴らしいものだと想う。一方、選考委員があれほどまでに圧倒されているそのことだけには、このひとたちは感想文とか読んだことがないんだろうなあといった違和感を覚える。なに見て小説、純文学、って言ってるんだろう。狭い世界での文章しか見ていないと、大人よりよっぽど上手な子どもたちの生きた文章が侮れないことを知らないままになる。

 最近、小説が売れない、と言われるが、それはおもしろくないから、という声を結構聞く。選考委員がワクワクしたって、読者が高揚感を覚える作品でないとダメだ。確かに、たくさんの人が小説だとかエッセイだとか文章を書いている。実際、その中のどれぐらいが一般読者に受け入れられているのか。読者の心に食い込むのが巧みなのは、大人よりもむしろ小中学生の純粋な感性の光る、わかる文章なのではないのか。

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第123回文學界新人賞選評 評

2018.5.10(木)



 長いこと、いわゆる純文学と言われる小説の類を読んだことがない。いや正確に言えば、平成20年から25年の間に新作を1作読みかけて、あまりにも興味を引かなかったので冒頭2頁にも満たないうちに読むのをやめた。純文学とはこのようなものだったかなあ、というのが正直な感想であった。


昭和の頃の純文学は、まだ読み応えがあった。なにかを学べるという思いも得た。構想の巧みさや隙を入れない一語一句に唸ることもあった。だが、平成、それも20年代以降、そんなことを感じる作品に出会えなくなってしまった。


 ところが、最近の芥川賞受賞の2作に久々の読み応えを感じた。なぜだろう。これは私の好みと合っていたから、としか言いようがない。①主題 ②素材 ③舞台 ④中心人物 ④構成・展開 ⑤表現(言葉の難易度・漢字と仮名の使用バランス)等々が私の要求と合致したのだろう。2作の同時受賞であったが、プロフィールを見て、あ、なるほど、と納得した。50歳代と60歳代の共に女性の作家である。ある程度の人生経験と、落ち着いたムードとか余裕が感じられたからだ。もっと言うなら、幼稚さから抜け出ていたからだ。


 最近目にしていた小説群は、生き方に深みがなく、せっかちで、短小軽薄、興味の湧かないネタ、エロティシズム、マイノリティ、とまあ、読書のための文章というよりも週刊誌の記事にでもしたらどう? と言いたくなるものが多いように感じていた。そのなかでの2人の受賞作は光って感じられたのだろう。石井遊佳氏『百年泥』の文章技術にいたっては、これこそ正統派の文学だと嬉しくなった。


 さて、ここからが本題。今年の『文學界』5月号で第123回文學界新人賞発表の結果と選評を目にした。2500を超える応募があったが、この度は作品の質が低く、考えた末に「受賞作なし」、との結果になったという説明があった。最終候補作が5点列挙されており、辛口選評は免れない、との但し書きのようなものまであった。そこまで前置きするぐらいだから、と思って読んだのだが。


 一番手の長嶋有選考委員。ちょっと意味が伝わってこない。氏の言う「文学ヅラ」が私には理解できていないから批評を共感的に読めない。おまけに表現がもどかしい。


 二番手、川上未映子選考委員。今回の選評は読みやすかった。自己世界に陶酔した文章表現でなかったからだろう。特に、候補作の内容を知らない一般ピープルに対して、各作品の内容要約を付しながらの評は親切である。驚いたのは、選考委員のなかに女性の生理について知識不足、認識不足と感じられる方があることだった。氏の「紋切り型を無自覚に採用する怠惰」の「紋切り型」がなにを意味しているか明確には掴めないので、この部分、一般ピープルには伝わりにくい。

 三番手東浩紀選考委員。こういう方の存在が貴重であると感じる。作品創作実務について「文学的作業」「非文学的作業」に触れた箇所、「この小説を読んで読者はなにが得られるのか、と思わず考えてしまった」というところ、謙遜はしておられるが、私には強く響いた。改めて他の選考委員にも小説をどう考えているのか尋ねてみたいと思った。


 四番手円城塔選考委員。ここ四年の作品に文章技術向上は見られるが「文芸誌向け」作風にすぎないことを、語弊のないように配慮して述べておられる。だが、言い方はどうであれ、たぶん私の考えもこれに近いと思っている。


 しんがりは綿矢りさ選考委員。比較的わかりやすい選評だった。それぞれの作品の長所・短所を挙げて自分の感想を述べる。一般ピープルには実にわかりやすい。小説家とはわかりにくい文章ばかり書くのでなく、このように伝える、伝わる表現をすることにも心を砕いてほしい。この方の言葉のなかで(読者の側に立ったときのいわゆるカタルシスについて語っておられるのだろうが)、「物語自体の文章力や説得力」の重要性に言及している点が共感できる。


 『文學界』の結論としての「受賞作なし」は、個人的には非常に納得できた。先の芥川賞候補に挙げられた『文學界』からの代表作品も他の作品と並べられ、比べられたとき、情けない印象しかなかった。『文學界』はいったいいつから三文小説を書かせるようになったのだ、と小説の「しょ」の字も知らない書けないのに、嘆かわしく思ったばかりだったのでなおさらである。

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この頃起きる変なこと

2018.3.20(火)


この頃、ついに自分が記憶障害か認知症を発症してしまっているのではないか、と思うことが続いている coldsweats02typhoon

家に届くはずのマイナンバーカードの書留が1か月経っても2か月経っても届かない。家の者は数回市役所に行って確認したが、「もう届いていると思いますよ」と、言われるだけ。郵便局で追跡すると1月13日(土)15時06b分に届けている、という記録が出てくる。市役所いわく、不在通知が入っていても連絡をしなかった場合は市役所に転送されます。ありませんのであなたが受け取っておられるはずです、と。そこで市の郵便局本局に、「受領サインを見せてほしい」と願い出ると、少し調べてから報告するのでそれまで待っていてください、とのこと????? 自分がどんなサインをしているのか見せてもらうのにもすぐということにはならないんだ、と、ちょっとビックリ coldsweats01paper

3月1日、県税事務所から封筒が届く。開けてビックリ catfacerock
これこれの書類がまだ確認できていないので、手許にある書類に記入、もしくは同封の用紙に記入して提出するように、と督促状っぽいモノが出てきた。
はあああ~ sign03sign03sign02
私は1月18日(木)にその書類を受け取り、間を置かず必要事項を記入し、同封された封筒に入れて、切手を貼って、地域の郵便ポストに投函した。それが3月1日の段階で届いていないとは。で、次のようなメモを付けて再提出した。

  clover 大変お世話になっております。

  この度、自動車税減免に関する報告書提出の確認ができていないとのお知らせを受け驚いているところです。該当の書類は平成30年1月18日に受け取り、間を置かず記入・押印し、切手を貼って●●市内の郵便ポストに投函しました。てっきり届いているものと安心しておりましたが、いったいどうしたというのでしょうか。
 再度お送りいただいた書類に記入・押印のうえ提出いたしますが、また郵便事故のようなものがあると不安ですので、同じものを2通、別々のポストに投函してお届けしたいと思います。お手数をおかけしますが、不要な1通は破棄していただければ幸いです。
 なお、今回の件は、●●郵便局のほうへ事情を伝えたいと思っております。
 ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。                              ①


①というのは1通目、もうひとつのほうには②と記入しています。



〔蛇足〕時間的には逆になるけれど、1月6日(土)午後、レターパックを郵便ポストに投函した postoffice
集荷時刻は「15時頃」とポストに明記してある。一日1回の集荷かあ、と思いながら間に合った安心もあって、15時を挟んで前後30分、年賀状を出しに来たどこかの知らないお爺さんと一緒に「なかなか来ませんねえ」と言って集荷車を待っていた。結局、待っている間には車を見なかったのだけど、来たのかなあ? もしかしたらローソンみたいに「集荷は11時だけど、今日の便はもうさっき終わりました」と10時半頃言われたように、14時半頃来たのではないかなあ、と思ってしまった。これ、置いて行かれると締切に間に合わないかもしれない、それは困る、というモノが入っていたんですよね。うーん。
でも、追跡サービスのやり方を学習した昨日調べてみたら、17時より後に回収していたみたいになっていたので、ひとまず安心。


今まで長い間、間違いはないはずと思っていた郵便局にいささかの不信感を抱くようになったきっかけは、たぶんあの時だと思います。窓口で封筒を差し出したとき、普通便でよいかと尋ねられ、送り先は近いところだから普通便でいいです、と言うと、
「たまに届かないこともありますからね」
と言われたのです。えっ、えっ、えっ・・・・・・?
書留にしろと言うことだったのか。
「それは困る、でも届くほうに賭けます」てなこと言って帰った時。昨年の終わり頃だったかなあ。


マイナンバーカードの件は本当に記憶も現物もないのです。
これって、ないのは私のせい? 記憶障害? 認知症発症? うーん  coldsweats02rainthundertyphoon

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新潮新人賞&文學界新人賞

2018.2.11(日)



新潮新人賞&文學界新人賞
 これら両賞の違いとは何か? といつも疑問に思っていた。同じ純文学系の新人賞である。直近の回では選考委員の構成も似通っている。
〔新潮新人賞〕大澤信亮  川上未映子  鴻巣友季子  田中慎弥  中村文則
〔文學界新人賞〕東浩紀    円城塔   川上未映子  長嶋有  綿矢りさ
                                            (以上、ともに掲載順)

  まず大澤信亮・東浩紀、彼らはは小説家というよりも文芸評論家、批評家としての功績のほうが大きい、そういった人物を置く。次に川上未映子は両賞に関わっている。これは不可思議、疑問。同じ川上でも川上弘美のほうが文章がわかりやすく読めるので好きだ。鴻巣友季子は翻訳家だが、翻訳物以外のところでのこの方の日本語は翻訳家が必要なくらい意味不明の表現が目立ち嫌いだ。似たのが円城塔だろうか、かつてこの作家の文章もよくわからないとうなった文学賞選考委員の多かったこと。あとの委員は普通に小説家である。田中慎弥はどんな文章も分かりやすく表現してくれるので読みやすい。


 両賞の違いを最も説明できるのは川上未映子かもしれない。だが、そもそも明確な違いなんてあるのか? それが「ある」と感じるのだ。ただ言葉で説明しにくいのも確かだ。私個人の感覚では新潮のほうがより高度な純文学を志向しているように思える。作家の表現においても作品の構成においてもかなりの技術を要求しているように感じる。芥川賞ダブル受賞の一作、石井遊佳氏の「百年泥」は 私小説ふう純文学だが、発想、糾える縄のようなプロット、言葉の選び方、漢字仮名表記の独自性、いずれもうならせてくれる。芥川賞のきっかけとなったのは直近の新潮新人賞で選考委員は群を抜いていると言うが、私たちには「群」の質が届けられていないのでそこのところはわからない。でも、そうなのだろう。

 小説は、もちろん選考委員を意識して書かれるものではないものの、賞に応募する以上、そして最後の関門で委員のお歴々が待ち構えている以上は、意識せざるを得ない。そうなるとこの二つの賞ならどちらに応募するかと言われたら、やはり考え込んで選考委員を比べることもするだろう。すると一絡げにした後の小説家たちに目がいく。別に作品の一つ一つを読んでこの委員はこんな作品を好むのだろうとか考えなくてよい。直感で、この人の作品は、明るいまたは暗い、文章がきめ細かいまたはあっさり、登場人物の心情を徹底的に表現するまたは人物の行動のポイントポイントを押さえながら心情を描く、等々の観点から見た場合、山の南なら文學界、北なら新潮かなと結論づけてみる。日が当たればものごとがよく見える。よく見える中での行動、心情表現が文學界、逆に日が遮られ山かげになった場所のようにはっきりせず陰惨とした雰囲気の中での心情表現なら新潮かな、と思うわけである。長嶋有・綿矢りさ 対 田中慎弥・中村文則 のイメージである。

 知人から新人賞に応募してみようかと思ってるんだけど、新潮と文學界だったらどちらだろうか? と訊かれて私が考えたのが上のようなことであった。だが……
 だが、新潮新人賞発表誌の「百年泥」選評の中で中村文則が「現実も『非現実』も等価に捉え、明るい話ではないのに不思議と読後感が良いこのあまり味わえない感覚は、最終候補作に珍しい作者の年齢ゆえかかと思った」と述べているのを目にして、同時に芥川賞ダブル受賞のもう一人「おらおらでひとりいぐも」の作者若竹千佐子氏を思い浮かべた。石井氏53歳、若竹氏こちらのほうが年上で63歳だ。若竹氏は文藝賞(河出書房)受賞がきっかけを作った。


 で、年が多い人間は新潮ではないほうかもよ。単純にそう答えてしまう私だった。ちょっといい加減。

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ゴールドシップキクコ

2018.2.3(土) 節分゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。




「ゴールドシップキクコ」で検索するとゴールドシップのイラストがたくさん見つかります。

3年前に骨折したとき、なにげなくみたTVの競馬番組がきっかけでゴールドシップ(=ゴルシ)を知った私ですが、あれから追っかけになり、PCの壁紙もゴルシ、病院の順番待ちに見るものも自分で作ったゴルシの写真集、暇さえあれば 動画、とまあゴルシづけの日々を送っていました。


そのゴルシをより深く知るきっかけとなったのが、ゴールドシップキクコ、簡単にいうとキクコという方のイラストでした。
たくさんのイラストがあり、「なるほど」「へえ、そうなのか」「個性的でおもしろいヒトなんだな、ゴルシって」「なんて可愛いお馬なの」などなどと、うなずくことが多く、ついつい引き込まれていきました。ゴルシに関連させて、仲のよかったジャスタウエイのこと、妹のレッドリヴェールのこと、異母兄弟のオルフェーヴル、フェノーメノ、ナカヤマフェスタ……と、どんどんお馬知識が広がっていき、今ではちょっとしたお馬通になっています。


私にとってキクコさんの存在はとても大きいのですが、どこにお住まいのどんなお顔の方か、おいくつぐらいの方か、なんてことは全くわかりません。わかっているのはハナコさんという猫を飼っておられることぐらいかな。あ、サクラさんという犬と同居しておられることも知っています。


たくさんのイラストの中には、すばらしく芸術的なものがいくつかあります。「白威能」(しろいの)などは古典のナントカ草紙に出てきそうな雰囲気たっぷりでおもしろいです。絵と文の両方で構成されています。芦毛のゴルシが「白いの」と呼ばれることと人を脅すほどの威力・悪行があること、立ち上がり癖のあることなどを交えて伝説民話ふうに創られていて秀逸。


3コマ漫画の「頑張れ! ジャスタ君」ではクロフネ先輩やキャプテントゥーレとともに3人の芦毛が登場します。3人は芦毛好きのジャスタウエイに「「「お前はどの芦毛が一番好きなんだ⁉︎」」」と質問します。ジャスタは「…みんな違って…みんな良い…」と金子みすゞの言葉を借りて答えます。これには「さすが!」とセンスのよさを感じてしまいます。3人同時の発声を三重カギ括弧で表現しているところもうならせます。また作品のひとコマ目で「現役最凶」としたところが、ゴルシの性格特徴を言い得ていて「お見事!」。最強でありながらも文字どおり最凶なお馬、わかりますよ、そのとおりですものね。でもそれがゴルシの良いところ、愛されるところ、憎めないところ、ってわかっている人には納得できますからね。いい作品です。


まだまだ次々と挙げられますが、延々と書いてしまいそうなので涙を堪えて、今日はここでおきます。

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アンドロイドだから・・・・・・?

2018.1.7〔日〕


医師から脅され、むりやりアンドロイドのような管理される体になったせいで、残された人生が悲惨なものに変化しています。



今一番悲しいのが、孫を抱くこともできないことです。


体は普通に動きます。でも1年前、医師の手違いから肺に水がたくさん溜まったまま放置されていたので、呼吸が止まりかけました。もちろん、意識もなくなり仮死状態だったのだろうと思います。
そのことが関係して、赤ん坊に近づくな、抱っこするな、と言われる羽目になってしまったのです。アンドロイドといっても、そこまでのものではないと思います。
確かに、体を庇う動きはしても、普通に重いものを持って運びます。誰かがそばにいてくれれば、赤ん坊を抱いてもなんとかできると思います。


すぐ近くで暮らしていても、抱くことも声をかけることもさせてくれないのなら、私は『眠れる森の美女』の魔女になります。姫が誕生したときに唯一招かれなかった魔女のように、孫に魔法をかけます。魔女の呪いで城も森も眠りの世界に陥ったように、私の悔しい思いで魔法をかけます。


魔女の気持ちが、よく理解できます。
あーあ、とうとう私はアンドロイドから魔女に変わってしまうのかなあ。
 

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