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第61回群像新人文学賞「美しい顔」(北条裕子) 所感

2018.5.30(水)


 一読して既読感が残った。


 久しぶりにこういう書きぶりの文章を読んだ気がした。
 久しぶりに、というのは、かつて同種の雰囲気をもつ文章をたくさん読んだ気がするからだ。何だったっけ? 考えること・・・・・・数分。思い出した。感想文だ、読書感想文。


 小中学生に作文指導、読書感想文指導をしていた現役の頃、賞に残る文章の中に、必ずこのように自らの心の内を感情の起伏を持たせながら書き連ねる作品があった。全国コンクールに出品するための県審査の場には、こういった類の文章はたくさんあった。それと似ていたのだ。通底するものが感じられたということである。


 選考委員は、北条氏の作品を絶賛し褒めちぎっている。このような文章にあまり接したことがないのだろう。ちょっと笑ってしまった。仮に、「美しい顔」がそこまで素晴らしいと言われる文体の作品であるのなら、小中学生感覚で想うがままに書き殴ればよいのだと勘違いする人々が出現しそうである。


 実際、日本一になった感想文、日本一を競った作文を見ると、たいていこういった、畳みかけるように繰り返す情の訴えや、語り口調で自分の心の有りようを描く場面がつらつら出てくる。ある対象とする現実を見て、詳細を認識して、共感的理解をして、自らの心の中を通してメタ言語として紡いでいく、これは形を変えたノンフィクション分野の読書感想文か主張作文に違いない、と私は思った。


 ただ、感想文にしては長くしつこい繰り返しに辟易する。そして斎藤さんの奥さんの長台詞が登場する辺りからは説明的になり、無理やり収束へ向かわせる感が否めない。さらに最終の、主人公と弟の海岸での場面は、そうだよね、そうしないとこの話を終わらせられないよね、といったものになっていて、いささか寂しい。まあ、ここがあるから感想文や作文でなくて小説なのだ、ということがわかるわけだが。


 それにしても、北条さんの視点と筆力、書き上げる根気強さはなかなかのものだと思う。それに引き換え、選考委員があれほどまでに圧倒されているそのことだけには、このひとたちは本当に感想文とか読んだことがないんだろうなあといった違和感しか覚えない。なに見て小説、純文学、って言ってるんだろう。狭い世界での文章しか見ていないと、大人よりよっぽど上手な子どもたちの生きた文章が侮れないことを知らないままになる、なんて思った。


 最近、小説が売れない、と言われるが、それはおもしろくないから、という声を結構聞く。選考委員がワクワクしたって、読者が高揚感を覚える作品でないとダメだ。確かに、たくさんの人が小説だとかエッセイだとか文章を書いている。実際、その中のどれぐらいが一般読者に受け入れられているのか。もしかすると、読者の心に食い込むのが巧みなのは、大人よりも小中学生の純粋な感性の光る、わかる文章なのではないのか。

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